穏田という街




江戸時代の画家、葛飾北斎の名画「富嶽三十六景」の一つに「隠田の水車」というタイトルがあります。

「穏田」は現在の神宮前1丁目、4丁目、5丁目、6丁目にわたる地域を指す地名で、江戸時代直前ごろから見られる、古い地名です。


江戸の南西の郊外に位置する隠田村は、渋谷川の流域であり、江戸時代後期には水車が渋谷川に設けられていた。



現在都会を代表する原宿は、かつては農村地帯で、今は暗渠になってしまった渋谷川にはたくさんの水車があった。粉を挽くために穀物が入った重い袋を担ぎ上げる男たち、洗い物をする女性たち亀をつれている子どもの姿には、農村のたくましい生活感がある。北斎はここでも水の表現を試みており、水車の回転とともに変わっていく水の瞬間の形を留めようとしている。


 鎮守は 第六天社(現在の穏田神社)。
江戸時代の穏田は、村の中央を流れる渋谷川に水車(葛飾北斎:富岳三十六景「隠田の水車」)がかけられ、のどかな田園地帯がひろがっていました。また、「松平安藝守(浅野)」「戸田長門守」「水野石見守」などの武家屋敷もおかれていました。<
 発展 村が急速に市街化したのは明治に入ってからのことです。特に軍人が屋敷をかまえました。
日露戦争で有名な大山巌元帥の邸宅もここに在り、徳富蘆花の小説「不如帰」の題材となったことは有名で、その徳富蘆花は表参道の反対側に住居がありました。
 町名の成立 昭和7年、豊多摩郡千駄ヶ谷村大字穏田字赤羽根・前田が穏田1丁目、字穏田が穏田 2丁目、字源氏山・大原が穏田3丁目となって『穏田』という町が成立。
 現在の地名 昭和40年、住居表示実施により『原宿』と合わせて渋谷区神宮前となりました。
現在、旧穏田町会は「穏田町会」「穏田表参道町会」「原宿九重町会」の三町会にわかれ、それぞれ独自の活動を行っています。

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